ラードの海に溺れて

めし、酒、本、映画

地の底に身を置いて

1

 職場で酒を飲んでたのがバレて店長に激詰めされたり、バイトの女子高生に告白して断られ、挙句の果てにはその子が逃げるように退職していってしまうたびに、自前のスミス・アンド・ウェッソンのロゴが入った折り畳みナイフを研いでは自分の腕を切り刻み、腕を包帯でぐるぐる巻きにして出勤してくるおっさんと2年程一緒に働いていた。包帯に血がにじんでるのを店長に指摘されると彼は拗ねた。
 夜勤上がりには、店で酒を買って帰るのが日課だった。
 パンチのきいた先輩だった。
 仕事中にヘラって納品されたばかりの商品をゴミ箱に叩き込んだり、客に喧嘩売りはじめちゃった時のフォローもそれはそれで愉快だったが、ただ、バックヤードにたまに血をこぼされるのは流石にきつかった。
 何より、客と揉める奴は、同僚とも揉める。
 結局僕の方が音を上げて退職してしまった。19歳の時だ。
 ちなみにそのおっさんは無事その職場をクビになり、今では車屋さんで働いていると風の噂で聞いた。本当に大丈夫なのかな。毎朝?いや、2時間毎ぐらいに呼気検査やったほうがいい。
 酒が残ってるかどうかじゃねえ。奴は就業時間中に飲みやがるんだ。

2

 退職から申し込み済みの合宿免許まで暫く間が空いてしまったので、その間は働き口を探しつつ、日雇い派遣で食いつないでいた。
 だいたいは交通費なしで日給7~8千円程度。どこぞの浮島にある家具屋の物流センターでの出荷作業とか、弁当工場の夜勤とか。
 早朝、新宿から貸バスに乗り込んで、長野のエムウェーブでコンサートの設営の仕事もあった。次の日の朝4時に、新宿・コクーンタワーのあたりで解放されたあと、這う這うの体で歌舞伎町を彷徨いもしたが、ピンサロか何かのキャッチに声をかけられたところで、そんな気は一切起きなかったのを覚えている。
 とまれ、どれもこれもしょっぱいネタばかりだったけれど、その中でも、まだマシな仕事があった。

 冷蔵倉庫でのおでんシール貼り作業だ。

 コンビニ各社がこぞっておでん70円均一セールをやる8~9月頃になると、こういったネタが期間限定で入ってくる。
 時給1200円程度+深夜手当で晩から朝まで
 海老名駅から送迎
 ダウンジャケットと帽子持参
 日当1万ちょっと。全日程入ればいい稼ぎ。
 もう何年も前もことで、細かいところは覚えてない。ただ、その時の求人メールの見出しは印象に残っている。

 「期間限定!涼しい倉庫で軽作業!!人気の現場です」

 冷蔵倉庫の気温は、後から聞いたら5~6℃程度。
 涼しいどころの騒ぎじゃねえだろ、バカ野郎。

 冬物のダウンとニット帽を引っ張りだし、リュックに詰め込んで小田急に乗った。
  工事中の海老名駅西口の階段を降りる前、ふと顔を上げると、遠くには開業を控えたららぽーと海老名が見えた。
 昼間は暑いくらいだったが、夜は気持ちのいい風が吹いていた。
 集合は20時だったが、駅に着いたのは19時前。
 蕎麦屋で腹ごしらえをしてもなお、乗り込む貸バスが来るまでだいぶ時間があった。
 階段を降りたところに立ち並ぶ、プラスチックの柵に寄りかかる。
 もう少し時間が遅ければ、同じくバスを待つ派遣スタッフがうろついているだろうが、そこにいたのは、僕と、酷い猫背のおっさんぐらいしかいなかった。
 彼も日雇い派遣の口だろう。別に構うことはない。僕はプラスチック柵に頬杖をつき、小説家になろう異世界転生ものを読んでいた。

「あんちゃん、真面目そうやなあ」

 駅の階段に腰掛け、メビウスをずっとぱかぱかと吸っていたおっさんが、いつのまにか傍まで来ていた。頬杖をついてぼんやりと携帯を見てる小僧の、どこがそう見えたのかは分からない。嫌味のようにも聞こえた。
 そのおっさんの見た目の印象は、言っちゃあ悪いが、仏教の六道三悪趣・餓鬼そのもの。
 なんて、他人のことをこうして形容することに、抵抗を示す人も多いだろうが、このおっさんとは因縁がある。

 それに今となっては、そのおっさんももう死んでるはずだ。

 

3

 おっさん曰く、

「神奈川県内の病院で夜勤受付の仕事がある」

「以前勤めていた警備会社の部長が千葉で独立した。そこのヤマだ」

「警備会社のヤマだが、ただの夜勤バイトだ。警備員として働くわけじゃない。電話番と軽い受付ぐらいしかやることがない」

 神戸の生まれだというおっさんが言っていたのは、おおよそこんな内容だった。

 その頃、1日1食に抑えつつ、当時付き合っていた彼女の仕事終わりに駅前まで迎えに行き、ラーメンを食わしてもらうくらいに困窮していた自分はこれに食いついた。

 本来ならば、コンビニの退職をもう少し遅らせるべきだった。貯金をつぎ込んで合宿免許の取得することになっていたのだ。退職のタイミングは考えうる限り最悪だった。

 結局その時は調整がつかなかったので、この期間中は日雇い派遣で食いつないでいたのだが、合宿免許が終わったタイミングでおっさんに連絡することになった。

 

 そのおっさんの知り合いの警備会社社長とは、横浜駅で会った。

 ツーブロックの恰幅のいい40代男性だった。若いねえ、いいねえ、という通り一遍の世辞のあと、社長が本題に切り込んだ。

 結論から言ってしまえば、聞いていた話とは何もかもが違っていた。

 社長曰く、

「病院の夜勤については話がまだまとまっていない」

「それまでのつなぎとして、板橋のスーパーで交通誘導の仕事を用意した」

「雇用形態はアルバイトだけど、君なら社員登用もしてあげられると思う。3年働けば独立もできるよ。どうだろう」

 

 どうだろうじゃあねえんだよ。

 

 しかし、千葉から横浜くんだりまで来ている恰幅のよいおっさんはそこそこ強面だった。俺をこの会に誘った禿のおっさんは、しばらくジッと考えたあと、「病院の夜勤仕事が決まるまでのつなぎ、っちゅうことやな」と確認を取った。その確認にはなんの意味があるんだ?ええ?

 なんてことは20歳にもならないガキには言えなかった。

「話が違うな……」とは思ったが、ここでやっぱり帰りますと言える雰囲気でもない。秋葉原エウリアンラッセンの絵を売りつけられそうになった16歳の頃を思い出した。その時は年齢故にローンが組めないということで、クリアファイルを売りつけられるだけで済んだものの、人はこうしてドツボにハマっていくんだろうな、という予感があった。そしてそれは的中した。

 

 千葉の会社の所在地と入る現場の確認を済ませたあと、社長と禿のおっさんが同じ会社だった時の昔話に興じ始めたが、

「当時の同僚から深夜突然電話がかかってきて、何か喚いていたから必死になだめたが、次の日の朝に飛び降り自殺してしまったってことがあったよな」

「あったなあ」

「あいつはのろまで、死ぬ度胸があるやつじゃなかった。酔った勢いでベランダから下を覗き込んで、うっかり落ちちまったのさ……」

などと話し始めて、話がまとまった後にする話じゃねえだろ、せめて俺が帰ってからにしろよ気が狂ってんのか?と思ったものの、20歳にもならないガキには何も言えなかった。

 

4

 

 結局私は、そんなことがあってもなお、ちゃんと千葉の営業所に顔を出してしまった。

 

 禿のおっさんの見立て通りだ。妙な真面目さが完全に裏目に出た。なんなら集合時間の1時間半に営業所に到着してしまった。

 もっとちゃんとしたオフィスのようなものを想像していたが、到着してみたらただのマンションだった。何かの間違いかと思って建物の前をウロウロしていると、明らかに二日酔いですという面をした、よれよれのワイシャツを着た社長が現れた。横浜駅で会ったときとはえらい違いだ。

 マンションの向かいにはセブンイレブンがあった。

「朝ごはんは食べたかい?」

「いえ、まだです」

「なら何か食べるかい? いいよ、好きなの選びなさい」

 早く来すぎた挙げ句に気を使わせちゃったな、という気持ちが芽生えた。

「神奈川からこっちに来るの、大変だったでしょう」

「はあ」

「警備員の仕事は初めてだっけ?」

「はあ」

「先にうちに入って、ご飯食べてていいよ」

 事務所とされる部屋に入ったが、そこは事務所として借り上げているだけの2LDKだった。靴を脱いで上がり、ダイニングテーブルで社長と対面し履歴書を渡すと、

「履歴書、書き換えたほうがいいかもな」

「はあ」

「私が以前勤めていた株式会社〇〇(警備会社)に1年在籍していたと書き足そう。ここまで何度も来るのは大変だろうからね」

そんなことを言われた。

 警備業界入りしたそもそものきっかけがこの出来事だ。結局この会社からは数カ月で尻をまくって逃げたわけだが、結局私はこれを機に4年ほど業界に身を置くことになった。警備員指導教育責任者*1になった今だから言えるけれど、この会社がやってることは完全に真っ黒だ。

 

 結局私は、次の日から片道1時間かけて始発で都内某所に出勤し、12時間何もない空き地で一人立ち続ける仕事に1〜2週間ほど従事することになる。ヒートテックを着ていても寒さが骨身に凍みる、11月のことだった。

 ここで学んだことが一つあるとすれば、「世の中には真面目にやったら死ぬ仕事がある」ということだった。

 

 この会社では、部署ぐるみの調書改竄の尻尾切りで首を切られそうになり、上司をぶん殴って表向き依願退職させられた盗犯係の元刑事の隊長(内縁の妻が占い師だったのだが、のちにこの妻は横領罪で逮捕されたらしい)や、親子2代で警備員をやっている元ヤンの先輩、脳梗塞の既往があって今もなお全くろれつの回っていない新人隊員、認知症の男性に制服を着せて徘徊させ「臨時警備に伴う巡回」と言い張ったりなど、あんまりにもあんまりなエピソードがたくさんあった。

 ここが地の底だと思った。地の底に引きずり込んだ禿のおっさんとの因縁は、次の会社に転職してからも続く。

 そしてその断片については過去に一度書いた。こちらに書いているのは、2社目に移ってからの話になる。

 

 また、このことは忘れないうちに書いておきたい。忘れないうちに。

 

inudog-toribird.hatenablog.com

 

*1:警備業界における必置資格