ラードの海に溺れて

めし、酒、本、映画

喫煙後10年

 今から書くことには、どうか目を瞑っていてほしい。

 

 煙草を吸い始めた日付はなんとなく覚えている。確か3月12日だった。

 その前日、ららぽーと横浜にあったJINSに眼鏡を受け取りに行っていた。自分が眼鏡をかけ始めたのはちょうどその日だった。身長は177cmあったから、充てがわれる席は自動的に後方になるものの、どうにも黒板が見えづらく感じたからとうとう眼鏡をかけることになったのだった。細いメタルフレームの無難な眼鏡を選んだ。

 眼鏡を受け取って、施設内のとんかつ屋で飯を食ってららぽーと横浜に併設されたイトーヨーカドーの中を歩き回っていた14:46頃、地面が揺れ始めた。咄嗟に持っていた買い物カゴの中身を放り投げ、空になったカゴをそばにいた母の頭に被せる機転が効いた。すぐそばの天井が崩れて、スプリンクラー用の水が通っている管から水が噴き出した。今になってその日を調べてみると、どうやら平日だったようだった。何故その日自分がそこにいたのかはだいぶ曖昧だ。さして重要な問題でもなかった。

 ともあれ、周りにいた客もこぞって買い物カゴを被り始め、平面駐車場への避難を開始する。買い物カゴは入り口で回収された。自分は外に出てから、どうしようか考えまごついていたが、母の判断は早かった。「今すぐ帰ろう。弟たちを迎えに行こう」と言い、車に飛び乗った。

 結果それは正しかった。途中混んでいた箇所はあったものの、通常時とそう変わらない所要時間で以て弟たちを迎えにいくことができたし、家に帰ることができた。もう少しもたついていたら、渋滞で麻痺した幹線道路で待ちぼうけを食らっていたと思う。ただ家に帰ったところで気は休まらなかった。その日の前日に正式に交際を始めた彼女と、メールでぎこちない会話をした。

 テレビ局はぜんぶ報道特別番組を流していたし、東北の惨状を逐一刻一刻と伝え続けていた。津波が町を飲み込んでいく様を中継で見た。それでも当初発表された行方不明者の数字は数百人程度だったと思う。正直なことを言えば、想像していたよりも少ない数字だと思った。当時Twitterでは楽観的なムードもあったぐらいだ。さすが忍者の国だとアメリカ人がもてはやしてる、なんて与太を話す人間もいた。でも結局その数字は推定に過ぎなかった。日を重ねる毎に数字は積み上がっていった。どうしようもなく。

filter:follows since:2011-03-11_14:46:18_JST until:2011-03-12_23:00:00_JST

 Twitterでこの文字列を検索すると、当時の投稿が垣間見える。10年が経って、コンスタントに削除されることなく継続し続けているアカウントもごく一握りになっている。

 当時はもっと、情報が奔流していた。それこそ濁流のように。

 10年は長過ぎた。あの時いた人は、少なくとも私のフォロワーにはもういない。下記はごく一部に過ぎない。

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 揺れていない時でも揺れているような感覚は、あの日の時点で既に物心ついていた人なら実感を伴って解してくれると思う。いつも閉じられていた思春期男子の部屋の扉も、その日からしばらくは開けっ放しのままだった。扉が歪んだら開かなくなるだろうから、と思ってのことだった。その日は眠れなかった。

 息が詰まりそうだと思って次の日街に出てみた。波乱なんかとは無縁な、なんてことないベッドタウンだと思っていたが、住人は駅前のスーパーに列をなした。そこそこ大きいスーパーの棚がすっからかんだった。建物の2階から駅前ロータリーを見渡すと、今まで見たことないような人出なのに、列を成しているからかあまり雑然とはしていなかった。ただ、皆が皆眠れなかったのか、一人一人が緊迫感を纏っていた。

 私は当時、新しいもの好きの兄貴の影響でiPhone4を使っていたが、LINEはまだ存在していなかった。連絡手段はメールか電話が主で、それは当時輻輳*1を起こしていたから、当日は電話が繋がらなかったし、メールの送受信も時間がかかった。ただ、Twitterは常に使うことが出来ていた。SNSという言葉すらも今ほどは定着していない、流行り物の類だったが、その日を境にTwitterに対する世間の目というのも変容してきたような記憶がある。デマなども行き交っていたが、そこに人の繋がりがあるというだけでも十二分に意味があることだった。

 ららぽーと横浜で天井が崩落した写真もiPhone4で撮影していた(今となっては悠長な話だ)が、当時のiOSは問題ばかりで、うっかりデータが消えてしまうことも多々あった。写真も例に漏れず消えてしまった。当時全く流行ってなかったInstagramに、その日買った眼鏡の写真をなんとなく載せていて、それだけが10年経った今も残っている。

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 結局外に出ても気分転換にならなかった。家に戻ると、兄貴と母が黙って煙草を吸っていて、ハードボイルド映画のワンシーンみたいだった。灰皿がわりに、大きなジャーに水を溜めてそこに吸い殻を放り込んでいたのだが、それも結構な量になった。外に出て行くついでに電池を買いに行くつもりだったのを思い出して、再度家に出て近場のコンビニに行った。もう、ボタン電池ぐらいしか並んでいなかった。

 そこで初めて煙草を買った。ショートピースだった。

 紺色の小さな箱が可愛く見えたからとか、その程度の理由だったような気がする。母が吸っていたピアニッシモも、兄貴が吸っていたマールボロも趣味じゃなかった。

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 それまで煙草を吸ったことがなかった。百害あって一利なしとして、むしろ家庭内禁煙を推進していたほうだった。また家に戻ってキッチンで煙草を吸い始めると、兄貴が呆気に取られていた。「お前あんなに言ってたのに」と言った。母はそれを見て、「あなたと同じじゃない」と兄貴に言った。「あなたも昔は、私に百害あって一利なしって言ってたのよ」

 

 今でこそ電子タバコが流行ってるし、その前からJTは煙が少ない、匂いのつきにくい煙草*2を開発していたが、ショートピースは少なくとも100年前から内容が変わらないままで来ている商品だ。

 ショートピースはヴァージニア葉にバニラが着香された煙草で、開封した直後は火をつけなくてもふくよかな香りがした。でも現代の煙草としては重すぎて、どうあがいたって吹かすしかない。肺に入れられる人間の方が珍しい煙草だ。「吸う」というよりは「喫む(のむ)」とか「服む(のむ)」という感じの煙草だった。僕は「喫む」という表現を当時好んで使っていた。

 フィルターがないから煙草の巻紙からヤニが移って指先が黄色くなるし、こまめに歯磨きする必要も出てきた。でもいい匂いがするし、身の回りでこれを吸っている人間なんかいなくって、そこが気に入っていた。同級生がよく吸っていたのはマールボロの赤だったから。

 

 震災後に兄貴が断捨離すると言い出した。買い溜めていたライトノベルを大きなダッフルバッグにぎゅうぎゅうに詰め込んで、秋葉原とらのあなに売りに行く。地震の日に帰ってきた際、自室のベッドにこれらが雪崩れているのを見て、時間が時間だったら死んでるな、と思ったらしい。ライトノベルが詰まったバッグはちょっと信じられない重さだった。そしてそれだけの冊数ともなると結構な額になった。

 その後、中央通りを北上する過程で、とらのあなからの戦利金で秋葉原の中華料理屋で兄貴と一緒にチャーハンを食べたのを覚えている。食後にこの煙草を吸っていたら店主の親爺さんに「にいちゃん、渋いねえ」と声をかけられた。以降、旧い喫茶店でも年配の方から声をかけられることがあった。でもエクセルシオールあたりの喫煙室で吸うと、周りの若い喫煙者は文字通り煙たがった。

 3月19日、秋葉原から中央通りを北上した先にある上野恩賜公園には桜が咲いていた。

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 震災ではJTの煙草工場も被災して、国産煙草の供給が止まった時期がある。それに伴って「チェリー」などの銘柄も廃止が決まった。街のコンビニや煙草屋からは軒並み煙草が消えて、KOOLやKENTなどの海外の煙草をみんな仕方なく吸っていた。歌舞伎町のあたりでは、それでもキャメルだけは余っていた。煙草の自販機でさえすっからかんだったのだ。それでもキャメルだけは余っていたけれど。

 煙草の供給が止まると聞いて、新宿区内を駆けずり回ってピースを探した。コンビニを何店舗も梯子しても見つからなかった。出遅れたと思った。でも歌舞伎町を少し奥に入っていったところにあった、昔からあるような煙草屋に行き着いたとき、その店主の年配女性が店の奥からピース缶を出してくれた。

「いつもね、買っていく常連さんのために取っておいているんだけど。あなたにあげるわ」

 流石に悪いから出直しますよ、と伝えたが、その女性はいいのよいいのよ、と言った。

「その常連さんね、あの日からうちに来てないのよ」

 2011年の3月末頃の話だ。

 

お題「気分転換」

*1:ふくそう。通信回線がパンクすること

*2:D-specと呼ばれていた