ラードの海に溺れて

めし、酒、本、映画

夜と霧を抜けて

 思考が鈍麻し、暗闇の中に身を置くしかなかった頃から一転、環境が大きく変わった。

 

 率直に言って生活レベルはいくらか落ちた。都心から転出して別の場所に居を構えたが、これがまた目も当てられない場所だ。これについてはまた更にここから引越したら話そうと思っている。今は再度引越しの準備を進めている。

 引越し当日、ふと「都落ちだなあ」と呟いたら、引越し屋が「そうですねえ」と同意した。うるせえな。

 とは言え、引越し以前と比べたらえらく気楽だった。

 ああ、世の中ってこんなに色彩があったんだっけ。都心を離れ、何もないベッドタウンに越したのにそんな感慨で胸がいっぱいになった。今の上司は論理的で言葉が通じる。世の中には喋っている言語が同じなのに言葉が通じないと言うことがままあるが、そういった人たちに囲まれ続けていると正常な判断能力も失ってくる。一時期難しく感じていたこともなんてことはなくなった。

 今でも会社に残っている同僚は、かたや社長指示でパーマをかけさせられ、かたや社長指示で坊主にさせられていた。どっちも50にもなる男性で、前職ではそれなりの役職に就いていた人間だったのだが、現在も社長により絶賛人格改造中だ。仮面ライダーか何かか? 飾らずに言ってしまえば豊田商事のノリに近い。昭和の悪いところの煮凝りのような会社だった。

 パーマ指示は私にも下されていたが、別に経費では落ちなかったので有耶無耶にしたまま退職の日を迎えたのだった。

 原因から切り離されるとだいたいの問題は解決する。あとは原因と離れたところに身を置きながら、残った因縁を片付けるだけとなった。これが一番の宿題だ。

 

 浮かれた話はここまで。

 環境が変わってから、いくつか話が飛び込んでくるようになった。それも穏やかじゃない内容のもの。

  曰く、犯罪被害に遭ったもののどうすればいいのかわからない

  曰く、金銭のやり取りの際相手が反社の存在を仄めかしてきた

  曰く、云々……

 一つ目は偶然とは言え乗りかかった船だった。警察官にとってどうされるのが一番やりやすいかイメージを持ち、それを伝えるだけでもある程度のことはなんとかなる。その一端で言えば、まずは連絡履歴や物的証拠などの保全。鑑識作業を見越して、被害内容によってはシャワーなども控えてもらう。具体的に何をされたのかについては、相手が自発的に話し始めない限り聴くことはない。ただの民間人なのに聞きたがるのは野次馬根性に過ぎない。

 事件発生から数時間後に覚知したために、連絡履歴の証拠は本人の意思で消してしまっていた。責めることはなかった。被害者の立場になって冷静な判断が出来るほうがおかしいのだ。

 ただ、本人が被疑者とされる人物に対し厳罰を望んでいるかは一つのポイントになる。非親告罪であっても、被害者の強い意志がなければ、その後の捜査や公判が、当人にとってより悪影響を及ぼすかもしれない。こればかりは被害者支援団体に振ってヒアリングでもしてもらった方がいい。公益性を鑑みれば問答無用で警察に通報すべき内容でも、死人が出ている場合は別として、被害者とコンセンサスを得ておくことでその後の齟齬は出にくい。ただでさえ参っている人間を責め立てるようなことをすれば本人の心を閉ざしてしまうし、そうなると過去を清算出来ないまま、望まざる十字架を背負っていくことになる。それだけは避けたかった。

 そしてもう一つのポイントとしては、第三者(あるいは名目上の“友人”)としてアドバイザリに徹することだ。例えば同伴して警察官等に対し法律面等で踏み込んだ話をしたり、示談交渉を代行・仲介する行為を報酬を得る目的で行うと非弁行為*1に当たると見做されてしまう。

 また、警察官の側からしても公的機関や士業の人間ではない者が同行するというだけで、取るべき調書の量と内容が不必要に膨らみ、入り組んでしまう。あちらから見れば、私と被害者がグルになって被疑者を貶めようという可能性もゼロではないのだ。

 少し話が逸れたが、「最低限の処置を伝え、被害者支援団体にバトンをつなぐ」だけでこの手の相談は大方完了する。NPO団体の相談員の方が当然ながら様々なところにコネもあるので話が早い。被害者支援団体はおおむね罪状と地域によってそれぞれ異なる。

 あとは細かい話として、警察官にあしらわれない*2為に出来ることなどについてお伝えもする。

 こういった相談は以前からごく稀に来る。ある程度警察官と折衝した経験のある者でないと状況を引っ掻き回して悪化させる可能性も否定できない。

 大昔にあったのが、交際相手が性犯罪被害に遭ったからと私刑に乗り出してしまった男性についての相談だった。心中は察するし、同じ立場ならと考えないことはないが、こうなると完全に弁護士マターだ。私に出来ることはほぼなかった。

 警察が動けないのはそれなりの理由がある。その理由さえ分かれば対処のしようがある。

 

 そういった意味では、警察が動けない事例はとにかく厄介だ。

 チンピラに追われている件については、本人自身は法に触れることはしていなかったことは記しておく。金銭が絡んでいる上に住所も割れていたので根回しが必要だったものの、そこは本人が能動的に動いていた。執拗な連絡等々は警察から警告可能だが、具体的な脅威がないと警察も動くに動けない。

 そして半グレ・反社案件は弁護士を選び、受任を断られることも珍しくない。この手の事件は「民事介入暴力」略して民暴と呼ばれる。これに対応出来る弁護士を探して相談することになるし、弁護士も複数人で対応する。

 今回のケースで必要だったのは、捜索しにきている可能性を踏まえて決着するまで姿を晦ますことと、凡ゆる意味で身を守る方法を身につけること。しかし護身用具の携行まで行くと軽犯罪法に抵触する恐れがあるからこちらからの勧奨は出来ない。頼まれれば、警棒や催涙スプレー、スタンガン等々の長所と短所など、機材の詳細も含め紹介はできるが、隠匿して携帯することへのリスクとベネフィットを天秤にかけてもらうほかない。

 そして、これから先裁判に発展する可能性を考えて、相手から接触を図ってきた際の記録の徹底も重要だ。また警察が動きにくい案件であっても、継続して相談することは裁判の証拠作りとしてもプラスになる。相談管理票*3を警察に作成してもらい、通し番号を控えた上でなるべく継続して積み上げていく。当然何かあればすぐに110番を含めて連絡する。

 

 相手と直接対話をするという場合には*4、近辺に不審な人物がいないか消毒*5した上で、すぐ動ける場所に配置する。

 そしてこちらが指定した場所に相手方に来てもらうのが鉄則。場所の選び方にもポイントがあるが割愛する。

 事案によってはこの直接接触が大きなターニングポイントになるために、焦りも大きくなる。彼らの常套手段として、(こちらが場所を決定する旨伝えていたとしても)直前に一方的に場所を指定してくる。

 そういった際でも相手の挑発に乗るべきではない。相手の土俵に乗り込むのはそれだけリスキーだからだ。

 常套手段とはいえ、直面すると肝が冷える。同伴者の焦りにこちらも飲まれそうになった。

 終わった後も周囲の消毒を忘れずに行い、安全を確保した上で脱出のゴーサインを出す。

 この行為も警備業法違反になる可能性がある。私は警備員指導教育責任者(1号)の資格を所持してはいるものの、これらの行為を「他人の需要に応じて」「反復継続して」「報酬を得る目的」でやるのは警備業者として警察から認定を貰っていなければ、無認定営業として摘発されるリスクがある。こういった前提知識がないまま誰かに手を差し伸べるのは、ゆくゆくは互いにとって不利益を齎しかねない。

 ゆえに、犯罪被害者の支援も含めてこれらはすべて、無報酬で行うことになった。

 

 具体的な内容はどれも書けない故、妙なノウハウのまとめ記事になった。

 今回の事案で用いた知識の一端となる。精神的な負担は確かに大きかったが、意義もあったし、誤解を恐れずに言えば、頂いた報酬を資金として、より精度と速度を伴ったサービスを高次元で提供出来るようになれば、より多くの人間を助けられるという手応えがあった。

 これを事業化したいという思いが日に日に強くなっている。ただ、必要となる資格取得も考えると準備期間には最低4年を要することも理解している。それも、漫然と過ごせばその期間は更に伸びてしまう。

 

 ヴィクトール・フランクル『夜の霧』はもはや説明不要の名著で世界各国で出版されているが、アメリカでは『Man’s Search For Meaning』直訳すれば、「生きる意味を探す」という題名で出版されたそうだ。

 夜と霧*6を抜けた今、やるべきことが明確に見えてきた。

 足を踏み外さず、いかに最短で目標を達成するか。

 考えるべきは今、ここだ。

*1:弁護士法第172条…弁護士又は弁護士法人でない者は、報酬を得る目的で訴訟事件、非訟事件及び審査請求、再調査の請求、再審査請求等行政庁に対する不服申立事件その他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱い、又はこれらの周旋をすることを業とすることができない。ただし、この法律又は他の法律に別段の定めがある場合は、この限りでない。

*2:信じられないが、犯罪捜査規範が全然頭に入っていないような地域警察官と接することが往々にしてある

*3:警察官に相談した内容がまとめられた書類。通し番号を振られ公的な記録として警察に保管され、2回以上同じ署で相談すると相談管理票に(継続)として折り重なっていく。都道府県警によって呼び方が違う。警察相談票・警察相談受理票とも。

*4:基本的にこれもこちら側から提案することはない

*5:尾行や待ち伏せがされていないか警戒することを指す

*6:元はナチス・ドイツによる政治犯検挙のための政令を指す

備忘録 8/19 COVID-19

やられた。罹患した。

備忘録としてこれを書く。今の意識はあるし発話はできる。

横になると痰で喋るのがつらくなるので身体を起こしている。

  • 8/8にファイザーのコミナティ筋注を1回摂取済み。8/29に再接種控えていた
  • 最初の自覚症状は痰の絡み。咳払いを何度か繰り返していた。
  • 休職中。家でほとんど飯を作らず外食は多かった。多分感染経路はそこ
  • 8月18日の3時くらいに目が覚めて38.9〜の発熱。覚えてる限りでは最高で40.2℃
  • 発汗が止まらず冷凍庫にあったロックアイスを抱いて横になる。痰が大きくて絡みっぱなしで全然出ない。
  • 唾液飲み込むのしんどくて吐き捨てた
  • 起きたら全裸で廊下に倒れていた。暑くて脱いだのだと思うが全く記憶がない
  • 熱全然下がらない。首に保冷剤巻いたりしたが低くても38.5〜39.7℃の発熱つづく
  • 東京都の発熱相談センターに連絡し、近所のクリニックを紹介してもらう。自費検査と間違えられないようにウチ紹介であると言えと。意識朦朧としてたがやたらと優しかった気がする。だいぶ救われた
  • クリニックには味覚が変という患者が何人かいた。痰が絡んで咳を繰り返したので院内が変な雰囲気に
  • 味覚や嗅覚には異常はないが食欲はない。ゼリーはくえる。
  • ずっと腹を下しており、水様便が止まらない。発汗もあるので脱水してるっぽい
  • クリニックでPCR受けた。他の人は明日とか明後日とかに検査結果出ると言われていたが、先生が急ぎでやってくれた。1〜2時間後に結果を電話する。SpO2は98% 肺の音は今のところ綺麗だと。
  • 解熱剤とエナジアの高容量と去痰剤とトローチと、あと抗菌剤が出た。5日分。それ以降どうしよう
  • 通院してる別の病院にも相談しなければ
  • みかん味のゼリーが喉に染みて痛む
  • クリニックから陽性の連絡。40℃以上の熱は人生で初めてだったのでだよな、と。保健所にはクリニックから通報する。
  • 保健所から次の日にSMSで連絡。「自宅療養しろ。7日後にまた連絡する」だけ。あっさりしてる。さもありなん
  • 自宅療養中の患者が都内で死んだニュースが流れる。
  • ワクチン1回打ってこれなら、未接種だったらどうなっていたのかと思うと心底ぞっとする。
  • 生きることに対する意欲はそれほどあるわけじゃないが、苦しんで死にたいわけではない。
  • 一回目の副作用はまあまあ強い方だった。37℃台の発熱はともかく頭痛が酷く次の日1日動けなかった覚えがある
  • 解熱剤飲んでたが、8/19の午前中までは熱が乱高下。今は37℃前後を推移
  • インフルなんかとは比較にならない。
  • 熱せん妄が強烈。クリニック行く前、履いているズボンのポケットに入っている家の鍵を紛失したと錯覚して家中のゴミ箱をひっくり返した。自分の財布なのに「俺の財布じゃない」と叫んでいた。完全に意味不明だった。
  • 裸になるまでの経緯は想像したくない
  • ワクチンは打ってくれ頼む。1回打ってこれ。本当に人が死ぬ。何万人に1人起きるかどうかわからない副作用の情報に惑わされるな。

地縛霊

 今日8月2日付で、会社を休職した。

 

 理由を端的に言えば、心身のバランスを崩した。 

 もともと人間の心身なんてものは自転車操業で、一度コケたら膝擦りむいたり頭打ったり、あるいは自転車の車輪が歪んだり、乗り直そうと思ってもなかなか取り戻せない。

 それで言えば、連日罵倒され続けた1月に自転車から転倒したまま、私は動けずにいた。

 詳細を差し控えるのは大人らしさでもなんでもなく、当時のことを思い出そうとすると耳障りなぐらいの動悸がし始めるからだ。そして頭の中にイメージが浮かんでいても、それを言語化するのは…苦しかった。ここ最近は事務所にいる時でも、社長がいようがいまいが動悸が止まらなくなった。

 主治医が言った「おそらく薬効いてないですよ。原因から離れて休養したほうがいいです」

 遂に、と思った。土曜日に診断書をもらい、月曜日の朝に社長にショートメールを送った。そこからは休職まで拍子抜けするほどあっさり進んだ。

 実質クビになると思っていたし、いっそのことクビにしてくれとまで思っていた。

 

 ここで断っておかなければならないが、渦中にいる人間は得てして悲観的になるものだし、しかしまた冷静な判断も出来ないのだった。悲観的な態度が鼻についたらこのブログエントリはここで閉じるべきだと思う。今日は終始この調子だ。

 

 5月、起き抜けに冷や汗が止まらなくなった日に駆け込んだ心療内科の先生は、投薬治療をするかしないか、選択肢を投げかけた。

 私はマトリックスの1シーンを思い出した。

これは最後のチャンスだ。先に進めば、もう戻れない。青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう


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 私が青のピルか赤のピルか、結局どちらを選んだことになったのかは今でも判らない。

 私は投薬治療を選んだ。仕事を続けたいと言った。でもこれは本心だ。会社を支えたいと思っていた。社長には世話になっていたから。

 でもそんなことをのたまう一方で、私はクローゼットのハンガーパイプにもやい結びにしたビニール紐をくくりつけ、帰宅して夜になると、その前で落ち着かずぐるぐると部屋の中を歩き回っていた。

 あるいはクローゼットの前に置いたデスクで煙草を吸いながら、俺の体重を支え切れるか、とか、Amazonでぶら下がり健康器を買ったほうがいいかもしれないな、とか、妙な部分だけ冷静だった。頸静脈は2kg、頸動脈は4〜5kgの力がかかれば閉塞する。気道閉塞なら15kg程度、ざっくり全体重の20%ほどが頸部に掛かれば縊死に繋がる。昔趣味で小説を書いた頃、法医学関連の書籍を何冊か購入していた。南山堂の専門書から、データハウスが刊行した怪しい本まで。昔取った杵柄にしてはいささかみっともない。

 一度心身のバランスを崩して痛感したのは、今まである程度、なんとか出来ていたことが全然出来なくなるということだった。顧客のフォローとか、そういった基本的なことが徐々におざなりになった。前職なら1日に何十回とかけていた電話(コールドリストから顧客を掘り返す営業だった)すら、今となっては1本電話かけるのにも気が重い。自分こんな仕事出来なかったっけ。愕然とした。今までささやかな自負にもなっていた前職での実績なんか消し飛んだ。メール1本打つのにも信じられないくらい時間がかかる。頭に靄がかかったようだった。営業中も、自分が何を喋っているのかすら曖昧になった。こんなザマの俺を今の会社以外でどこが雇うってんだ。やるしかない。やるしかない。これを乗り越えれば。

 同期が辞めた。俺の相棒だった。

 あんたも辞めたほうがいいっすよ。命賭けてまでやる仕事じゃないし、替えの利かない仕事じゃないですって。そうだよな。解ってる。

 ある日、社長が「今日のアポは?」と訊いてきた。なかった。近所のスーパーに連れ出され、そこで安いスーツを買って渡された。ささやかな抵抗は飲まれてしまった。「はい」としか答えられなくなった自分を、遠くから俯瞰した自分がずっと見下ろしていた。逃げられない。正直そう思った。

 薬の量は増減した。折れ線グラフを想像してくれればいい。上か下か、上に振れているときはやらかすし、上に振れるものはそのうち下に振れる。上の時にはやらかしも増え、次に下がった時の波形は、やらかしへの後悔によって下降率が一番底、二番底、三番底へと抜けていく。

 私が先生と目指すべきは、折れ線グラフをなるべく平坦に保つことと、上げ幅や下げ幅がしきい値を超えないようにすることだ。上げる薬もあれば下げる薬もあって、週ごとに目まぐるしく変化する情緒に応じてそれぞれの投薬量は変動した。やがてそこに睡眠導入剤も追加された。寝なきゃ効かないからだ。でも結局薬の量は安定しなかった。

 ただその一方で身体が勝手に動く場面があって、自分の場合は、倒れている人を見ると声をかけずにはいられない。今住んでいるところは繁華街で酔っ払いもしばしば倒れている。酔っ払いの介抱は、警備会社時代に病院に配置されていた頃は、搬送されてすぐERから吐き出された(そして口からあらゆる物を吐き出している)酔客の対応を連日やっていた。放っておこうと思う部分も頭の片隅にあるが、酔っ払っている人間が仰向けになっていると回復体位にしたくなる。かつて嘔吐による窒息で死んだ政治家がいた。

 その頃取得した上級救命講習・応急手当普及員・AHA BLS*1がまあまあ活きた。バイスタンダー*2を2度やった。昔やった杵柄。当時は退屈と言えば退屈だったけど。

 深夜、羽織ったジャンパーから削って尖らせた鉄の棒を取り出して「俺は人を殺しに来たんだ」と口走る爺さんの横に座ってさりげなくそれを没収するだとか、あるいは、ある施設への不法侵入を試みた男性を私人逮捕して半日取り調べで拘束される(おかげで当直勤務明けの日勤がほぼなくなった)とか。退屈な分、鉄火場となると溜まっていた鬱憤がここぞとばかりに爆発する。正直それが楽しかった。資格者証のバッジが増え、また社内表彰されると気持ちも上向いた。

 昔の楽しかった思い出を振り返り、ある種の郷愁を覚えてしまう。先日、懐かしくなって資格者証・初任研修時の集合写真・表彰状なんかを引っ張り出してしまった。でも同時にあることを思い出していた。

 時に警備員は「最期の職業」と言われることがある。私は中小から大手に渡ったが、中小では脛に傷がある隊員は少なくなかった。大手も中途、あるいは新卒でも様々な変遷を辿っていた。

 その中で印象的だったのは、かつて勤めていた会社などで要職を勤めていた人だった。どんな社会経験を積んでいたとしても、警備員はルーティンワークをこなせるかどうかも大切だが、実はそれ以上に鉄火場の時に(あるいは発生する前に)即座に動けるかどうかが基準になる。この際必要になる“咄嗟の判断”は、通常企業で求められるものとは異なるものだ。一歩間違えれば受傷事故に繋がったり、一般私人(一般人=警備員)に本来ある権利から逸脱してクレームや違法行為に繋がる可能性がある。

 故に、警備員は最初に初任研修を数十時間に渡り受ける必要がある旨、警備業法で規定されている。要は常識が通用しない部分があり、そこにある落とし穴もそれなりにデカい業種だ。

 ただそれを理解し切れないまま、それまでに働いていた感覚で入ってくる人も少なくない。

 そういった隊員たちを、警備会社内では「地縛霊」と呼んでいた。地縛霊が縛られているのは今までの職歴だったり、経験だったり、あるいは資格だったりする。

 郷愁を覚え、何かにつけ昔取った杵柄を手段に何かに駆られている自分は、かつて手を焼いていた地縛霊に近似しているように思えてきた。

 先ほど警備業法の解説を手に取った。かつて県警備業協会に一週間通い詰めて学び、警備員指導教育責任者の資格を取得した頃の知識がごっそり抜けている自分に愕然とした。

 私が現場で言っていたのは、「警備員には特別な“権限”はないけれど、一般私人には権利がある。一般私人が持っている権利を正しく把握することが警備員の武器になる」何を根拠にそんなことを言っていたんだろうか。

 思えば20そこそこの若造がようそんなことを言えたと思う。少なくとも今の私には言えなくなってしまった。

 繰り返しになるが、渦中にいる人間は得てして悲観的になるものだし、しかしまた冷静な判断も出来ないのだ。厳しい状況に陥ったときは楽しかった時の記憶に縋りたくなる。でも当時の記憶も楽しいことばかりフォーカスされているだけで、それ相応に辛いことも当然あったはずなのだ。だからこそ上昇志向も生まれ、有給と自腹を切ってでも資格を取得した。頭で解っているが、縋らずにはいられない。

 いくら眠くても身体がだるくても、警備員の仕事が好きだった。仲間と眠いなと零しながら立哨して夜空を見上げるのが好きだった。ふらふらせずに丹田を意識して歩くと様になる。気をつけ・休め・右向け右・左向け左・回れ右・受礼者に対し敬礼、今でも号令があればすぐに身体が反応する。

 ずたぼろになっても、営業の仕事が好きだった。お客様へのプレゼンはプレゼントだと思えば熱が入った。前職で契約を頂いたお客様の売り上げが上がっていくのは日々の仕事の糧になった。今の仕事では自分は誰の力にもなれていない。今日休業に入るとき、会社に社用のパソコンを返納した。ごめん、今の自分にはもう無理だ。

 

 

 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

*1:医療従事者向けの心肺蘇生法(Basic Life Support)専門用語が多少入ってきたり、チームダイナミクスを学んだり、試験が英語だったり、ポケットマスクなるものを人工呼吸の際に扱ったりなど細かな違いがある

*2:広義では救急現場に居合わせた人を指す。狭義では心肺蘇生法を現場でやった人のことを指すことが多い

あだ名は先生

 高校生の時のあだ名は「先生」だった。

 下から数えた方がちょっぴり早いくらいの県立高校はまあまあ荒れていて、バルコニーで煙草を吸う同級生の常喫銘柄もそれなりにバリエーションがあった。世界観としてはマイルドなごくせんだ。私と同じ苗字で平野綾似の同級生のことが、私はちょっぴり好きだった(涼宮ハルヒの憂鬱を一通り見たばかりの時期だった)のだが、高校一年生の昼休みに教室の真ん中で「コンドーム10箱とセッタ2カートン!」と電話口でデカい声でどこかに注文していたのを聞いてしまってドン引きした。業者か? みんなワイシャツは第二ボタンまで外してるし、第二ボタンどころか第4ボタンまで外してる奴もいるし、ネクタイもちゃんと締まってない。筋トレが趣味の葬儀屋の息子は冗談みたいな厚さの財布を持ち歩いていて異様に羽振りが良かったのを覚えている。男女比が3:7でみんなカジュアルに惚れた腫れたを繰り返すから、相関図はまるで東京メトロだった。

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東京メトロの路線図

 

 あまり制服を着崩さないタイプの同級生も酒は飲んでいて、ある時私の家に学校帰りに遊びに来た時は、私が入学祝いとしてドンキで買ったジョニーウォーカー・スウィングのボトルをストレートで駆けつけ3杯流し込んで、ブレザー姿のままベロベロで帰っていった。当時流行り始めていたイチローモルトのボトルは触らせなかった。すごい高校生ばかりだなあと思っていたが、でも頭髪検査だけは妙に厳しくてだいたいは黒髪だったから、荒れきれてない中途半端さがあった。

  ヤンキーがそこそこの比率でいる公立高校では、髪を毎朝固め、ワイシャツを第一ボタンまで留め、ネクタイを首元まで緩みなく締め、銀行屋のような革のカバンを提げているだけでキャラが立った。少しゆったり目に作られたブレザーが不恰好に見えたので、どこかで買ったベストを中に着てスリーピースのように着こなしていたら、担任の教師よりも教師らしくなった。調子に乗った私は、イギリスから個人輸入した手巻き式の懐中時計をベストのポケットに入れるようになった。3万ちょっとしたそれは、手巻きのネジを巻き過ぎてすぐバカになってしまった。そもそも手巻きの時計は一日に1分近くずれたのだ。でもかっこよくてそのままだった。高校生の時に旅行に行ったスイスで、ユングフラウヨッホの麓で180フランで買った懐中時計も提げていた。あとの旅程で、ベルン駅で全く同じ時計が120ユーロで売っているのを見た時は卒倒しそうになった。あの日本人め。(下手にスイスで買い物するよりも、国境を跨いで買い物した方が安く済むことを知ったのは、スイスから直行したタイ・バンコクのホテルでやっとまともに使えるWi-Fiを拾えてからだった。)でもかっこよかったからそのまま使い続けた。懐中時計には蓋があるものとないものがあって、スイスで買ったものは蓋があって、イギリスから輸入したものは蓋がなかったのだった。

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スイスで買ったやつは確かこんな感じの見た目だった

 

 気に入っていたが、その後2度か3度に渡る引越しで紛失してしまった。
 スイスでは醸造酒が16歳から、蒸留酒が18歳から飲んでもよいことになっていたので、スイスでワインと白ビールを飲んだ。チーズフォンデュにも少しワインが入っててえらく美味かった。これが本場の味かと思った。そう、これはスイスの話であって、決して神奈川のベッドタウンであった話じゃない。同窓会に顔出したら当時のこといじられたりするのかな〜、って思ってたけど、高校から卒業してしばらく経っても同窓会に誘われる気配はまったくない。あの業者の子(?)は元気にしているだろうか。元気過ぎてもなんか嫌だな。元同級生には普通に暮らしていて欲しい。

トリスウイスキーのロック

 ルバイヤートという、ペルシアの四行詩集がある。

 

 11世紀に、オマル・ハイヤームというペルシア人の男が自費出版で出した詩集だ。古本屋のワゴンセールで投げ売りされていたものをフィッツジェラルドが見出して、そしてそれがイギリス近代文学に影響を及ぼしたとかなんとか。確か岩波文庫版の解説にこんな感じの記述があったと思うが、どこかに埋れてしまって定かではない。手元にある人は訂正してほしい。解説はないが、本編は青空文庫にあるから一度読んでみてもいい。

 その中に、こんな一節がある。

 

嘆きのほかに何もない宇宙! お前は、

追い立てるのになぜ連れて来たのか?

まだ来ぬ旅人も酌む酒の苦さを知ったら、

誰がこんな宿へと来るものか!

 

 フィッツジェラルドが見出した1人の孤独な男の叫びは英訳されヨーロッパに広まったけれども、ルバイヤートは言ってしまえばバッドに入った酔っ払いの戯言で、全編こんなノリの四行詩がたくさん載っている。まるで今の私の状況のようだ、なんて陳腐なことはこのブログでさえも散々書き散らしたからもう言わない。

 

 先日キャバクラに初めて行った。会社の先輩に連れられ2人で。

 沖縄のキャバクラだった。沖縄県那覇市松山はそういうところで、今時都内でもなかなか見ないような坊主頭だったりなんだり、およそ堅気には見えないようなキャッチが闊歩している。が、歌舞伎町のそれと比べたらだいぶ真っ当らしい。無料案内所には「保証 5000〜」なる謎の文字列があった。沖縄特有のシステムらしいが、都内のキャバクラにも行ったことないので、説明は全くピンと来なかった。ともあれ私は2店舗はしごして、しゃばしゃばの氷で作られたトリスのロックを都合8杯飲んでビジネスホテルで崩れ落ちた。行く前に先輩から、「裸の現金とホテルのルームキーだけ持っていこう。携帯は置いていけ」と言われてそのようにした。楽しかったか? 莫迦を言ってくれるな。引きずられるがままに行った末にポケットにねじ込んだ4万が消えた。キャスト*1がやりづらそうにしていたタイミングが確かにあって、その度に私は消え入りそうな気持ちになった。誰も幸せになれない空間だった。

 私に対する“真面目な男”という評はよく言ったもので、つまらない男は煮ても焼いても、安ウイスキーのロックをいくら流し込んでも食えやしないということだった。気のない異性に身を寄せられたところでどぎまぎ出来るような年齢でもなくなってしまった。太腿に手を乗せられたところでむず痒いだけだから、と言いかけて、キャストの側も仕事なんだよな、とウイスキーで濁りきった頭で思い直すと、今度は申し訳ないと言う気持ちが溢れてきた。ドキドキとは別のベクトルで情緒が急速に閉じていくのを感じた。せめて、“親の死に目に会えなかった情けない男”フェイスになったりということは極力抑え、出来るかぎり笑顔で先輩を立てることに終始した。「こいつはキャバクラ初めてだから」と先輩は私のことをキャストに触れ回っていたが、何故今まで一歩も足を踏み入れなかったかといえば、こうなることが目に見えてわかっていたからだった。初めて踏み入れたとて、それも遅すぎると多少ボディタッチがあったところで何の感慨も湧かなくなる。だいたい15分おきにキャストは目まぐるしく入れ替わりながら(ボーイが声をかけるのだ)、席着いて2分も経てばドリンクいいですか?と聞いてくるあたり、一旦の目的は達成できただろう。およそ60分の間に女性が2人ずつ、計4組が横につき、どんな仕事をしてるんですか?どこから来たんですか?一杯頂いていいですか?という質問を4回繰り返される羽目になった。

 先輩は残白*2の水割りを舐めながら言う。「俺はキャバクラで雑談力を鍛えたんだ」だからか。だから先輩の話し方はおっさん臭いのか。営業の先輩としてそりゃあ尊敬はしているが、(現代っ子代表みたいな面をしたいわけじゃないということはわかって欲しいけど)現代っ子からすると駄々滑りしているようにしか見えない言動がしばしば出てくることに、思うところがあったのだ。「お前の話は面白くないね」そりゃあね。

 そんなことはどうでもいいのだけど、行ってみて意外だったのは、ウチナー*3が全然いなかったことだ。千葉やら東京やら静岡やら大阪やら。それも来て2〜3ヶ月しか経っていないと自称する。そして皆、大袈裟でもなんでもなく口を揃えて言うのだ。「沖縄に旅行に行ったら気に入っちゃって、住みたくなったんです」と。それ以上突っ込むのも野暮な気がした。多分本当なんだろうな、と思うことにした。何を連想したかとか、もっと言えば真相などどうでもよくて、私がその日その時その場所で抱いたその気持ちをどう処理するかの話だ。

 2店舗目の最後に私に付いた女性は入店して間もないのか、一切キャバクラに行ったことない自分でも分かるぐらいぎこちなく、なんなら曲がり角から顔を出した時点で少ししんどそうに見えた。どこ出身だったかは忘れたが、この人も内地の人なんだ、と思ったのは覚えている。当たり障りのない会話をしていく中で、休日は何をしているのか、という話題になったところで彼女は答えた。「朝になったら…海を見に行くんです。ビール飲んでずっと座って海を見て、夕方になったら帰って、買ったお弁当食べて……」

 あんた、内地に帰ったほうがいいんじゃないか。やられかけてねえか。そんな言葉が喉まで出かかって、結局「そっか」と言って流した。

 その日もらった名刺はぜんぶホテルのゴミ箱に捨てた。

*1:キャバクラで働く女性のこと

*2:泡盛。沖縄のキャバクラではど定番らしい

*3:沖縄県内出身者

誠実さ(としか呼んでくれない何か)について

 このブログに投下したエントリは13しかないんだそうだ。

 このエントリも含めても14にしかならない。3年もやっているのにね。

 

 デュワーズ12年を飲みながら、ピース缶を吸いながらひとりぼんやりと壁を眺めていた。別に壁の模様が顔に見えてくるということもなかった。考えていたのは、あそこの餃子はうまかったな、とかそんなことだ。白い漆喰ふうの壁紙に閃輝暗点が瞬いたのは偏頭痛の前兆だった。私だけしかいない部屋で、ムルヒという最高の男が爪弾く曲を聴いていた。

知ってて踊ろうよう

知ってて踊ろうよう

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  普段家で飲むことはあまりない。タンブラーやショットグラス(行きつけのバーの5周年記念にいただいた、ロゴ入りのやつだ)はあっても、テイスティンググラスやロックグラスすらないのだ。デュワーズもショットグラスで飲んでいた。まともな氷もない。端的に言えば、家で飲む酒ほどまずいものはなかった。それならせめて家から5分のところにあるミュージックバーで飲みたかった。と言っても、安月給のサラリーマンが行ける回数なんてたかが知れているけど。

 酒と煙草、どちらかをやめなければいけないと言われたら、少しだけ悩んだあと、結局は煙草を選ぶと思う。どちらにせよ、身体に悪いものは魂には優しい。

 とは言え何故煙草を取るのかと言えば、いくら吸ったとて正気でいられるからだ。良くも悪くも。酒はそうじゃない。酒はただ全てを曖昧にする。自分が酒を飲むようになったのはバーに行くようになったからに過ぎない。バー以外で飲む酒は、今でも好きにはなれなかった。バーに行くのだって1人で行くことがほとんどだ。立ち並ぶ酒瓶は毎日バーテンダーに磨かれて胸を張っている。光が反射して煌めいているバックカウンターを敬虔な気持ちで祈るように見上げるのは一番の安らぎだった。でもアルコールが深くなるにつれ、敬虔な気持ちと、魔が差す境界線を綱渡りしていくような心持ちになる。時折足を踏み外すことも……ある。

 酒を飲むたびに頭をよぎるのは、「記憶は魂に深く刻まれる」という言葉だった。それが箴言なのか警句なのかは分からない。あるいはうわ言の類なのかもしれなかった。これも別に何かの本の一節というわけでもなく、ただそれっぽい言葉というだけだ。それも、深く深くアルコールが回っていくうちにどうでもよくなってしまう。どうでもよくなってしまう。

 たいていのことを私は流してしまっている。私に対しては何を言ってもいいと思っている人間もいれば、私がいる側で何をやってもいいと思っている人間もいるし、故に優しいと言ってくれる人間もいれば、事なかれに過ぎないと冷笑する人間もいる。見方はそれぞれだけど、少なくとも私は通常あまり他人に関心がないし、自分の感情の処理の仕方も上手い方じゃないし、怒ることにも疲れてしまう、そんな人間だった。自分1人が飲み込めば済むことならば、耐えていたほうがまだ丸く収まる、と考えることもある。そういった価値判断をするタイミングは多々あった。なんなら今でもそうだった。でも。

 ある時、参加するのにも全く気が進まなかった飲み会で、男が女に五千円払うから、と囁くのを聴いた。またある時は、また別の男にけしかけられた女に身を寄せられたことがあった。率直に言って吐き気を催した。何よりも堪えたのは、不愉快であると表明した途端、そこから孤立してしまったことだった。最初はただの口実だった体調不良を事実が上書きしてゆくのがわかった。吐けたらいっそ楽だった。でも思いのほか正気で、帰りに買ったスポーツドリンクを飲み干して、最後の理性で以て歯を磨いて寝るだけだ。整髪料を落とすのだけは明日の自分に任せてしまう。横になった時に少し逆流した胃液が食道を焼く。箪笥にぶつけた指が今更になって痛み出す。

 別に自分が出来た人間だとか、誠実だとか、真面目だなんて思っていない。私に向けられるそれらの言葉が孕むニュアンスは揶揄が含まれている。でなけりゃそんな言葉、軽々しく使えるはずがないのだ。言葉を信じるな、言葉の持つ意味を信じろ。たまたま私は類人猿の裸踊りに価値を感じないというだけの話だ。別に人は誠実であることに価値を感じているわけじゃなくて、言い訳が欲しいだけだ。「誠実な人」は言い訳をくれない人を言い換えただけの言葉で、あるいはつまらない人間だな、というニュアンスをこの餃子の皮ぐらい厚みのあるオブラートに包んだだけの言葉にすぎない。言い訳などくれてやらない。「ここまで言わせたんだから」なんて言説も大嫌いだ。てめえが勝手にしたことはてめえが勝手に責任を取ってくれ。人を舐めるのも大概にしろ。

 家に帰ってくれないか。

 

 ピース缶は重過ぎた。

 ハイライトメンソールに火をつけることにした。

喫煙後10年

 今から書くことには、どうか目を瞑っていてほしい。

 

 煙草を吸い始めた日付はなんとなく覚えている。確か3月12日だった。

 その前日、ららぽーと横浜にあったJINSに眼鏡を受け取りに行っていた。自分が眼鏡をかけ始めたのはちょうどその日だった。身長は177cmあったから、充てがわれる席は自動的に後方になるものの、どうにも黒板が見えづらく感じたからとうとう眼鏡をかけることになったのだった。細いメタルフレームの無難な眼鏡を選んだ。

 眼鏡を受け取って、施設内のとんかつ屋で飯を食ってららぽーと横浜に併設されたイトーヨーカドーの中を歩き回っていた14:46頃、地面が揺れ始めた。咄嗟に持っていた買い物カゴの中身を放り投げ、空になったカゴをそばにいた母の頭に被せる機転が効いた。すぐそばの天井が崩れて、スプリンクラー用の水が通っている管から水が噴き出した。今になってその日を調べてみると、どうやら平日だったようだった。何故その日自分がそこにいたのかはだいぶ曖昧だ。さして重要な問題でもなかった。

 ともあれ、周りにいた客もこぞって買い物カゴを被り始め、平面駐車場への避難を開始する。買い物カゴは入り口で回収された。自分は外に出てから、どうしようか考えまごついていたが、母の判断は早かった。「今すぐ帰ろう。弟たちを迎えに行こう」と言い、車に飛び乗った。

 結果それは正しかった。途中混んでいた箇所はあったものの、通常時とそう変わらない所要時間で以て弟たちを迎えにいくことができたし、家に帰ることができた。もう少しもたついていたら、渋滞で麻痺した幹線道路で待ちぼうけを食らっていたと思う。ただ家に帰ったところで気は休まらなかった。その日の前日に正式に交際を始めた彼女と、メールでぎこちない会話をした。

 テレビ局はぜんぶ報道特別番組を流していたし、東北の惨状を逐一刻一刻と伝え続けていた。津波が町を飲み込んでいく様を中継で見た。それでも当初発表された行方不明者の数字は数百人程度だったと思う。正直なことを言えば、想像していたよりも少ない数字だと思った。当時Twitterでは楽観的なムードもあったぐらいだ。さすが忍者の国だとアメリカ人がもてはやしてる、なんて与太を話す人間もいた。でも結局その数字は推定に過ぎなかった。日を重ねる毎に数字は積み上がっていった。どうしようもなく。

filter:follows since:2011-03-11_14:46:18_JST until:2011-03-12_23:00:00_JST

 Twitterでこの文字列を検索すると、当時の投稿が垣間見える。10年が経って、コンスタントに削除されることなく継続し続けているアカウントもごく一握りになっている。

 当時はもっと、情報が奔流していた。それこそ濁流のように。

 10年は長過ぎた。あの時いた人は、少なくとも私のフォロワーにはもういない。下記はごく一部に過ぎない。

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 揺れていない時でも揺れているような感覚は、あの日の時点で既に物心ついていた人なら実感を伴って解してくれると思う。いつも閉じられていた思春期男子の部屋の扉も、その日からしばらくは開けっ放しのままだった。扉が歪んだら開かなくなるだろうから、と思ってのことだった。その日は眠れなかった。

 息が詰まりそうだと思って次の日街に出てみた。波乱なんかとは無縁な、なんてことないベッドタウンだと思っていたが、住人は駅前のスーパーに列をなした。そこそこ大きいスーパーの棚がすっからかんだった。建物の2階から駅前ロータリーを見渡すと、今まで見たことないような人出なのに、列を成しているからかあまり雑然とはしていなかった。ただ、皆が皆眠れなかったのか、一人一人が緊迫感を纏っていた。

 私は当時、新しいもの好きの兄貴の影響でiPhone4を使っていたが、LINEはまだ存在していなかった。連絡手段はメールか電話が主で、それは当時輻輳*1を起こしていたから、当日は電話が繋がらなかったし、メールの送受信も時間がかかった。ただ、Twitterは常に使うことが出来ていた。SNSという言葉すらも今ほどは定着していない、流行り物の類だったが、その日を境にTwitterに対する世間の目というのも変容してきたような記憶がある。デマなども行き交っていたが、そこに人の繋がりがあるというだけでも十二分に意味があることだった。

 ららぽーと横浜で天井が崩落した写真もiPhone4で撮影していた(今となっては悠長な話だ)が、当時のiOSは問題ばかりで、うっかりデータが消えてしまうことも多々あった。写真も例に漏れず消えてしまった。当時全く流行ってなかったInstagramに、その日買った眼鏡の写真をなんとなく載せていて、それだけが10年経った今も残っている。

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 結局外に出ても気分転換にならなかった。家に戻ると、兄貴と母が黙って煙草を吸っていて、ハードボイルド映画のワンシーンみたいだった。灰皿がわりに、大きなジャーに水を溜めてそこに吸い殻を放り込んでいたのだが、それも結構な量になった。外に出て行くついでに電池を買いに行くつもりだったのを思い出して、再度家に出て近場のコンビニに行った。もう、ボタン電池ぐらいしか並んでいなかった。

 そこで初めて煙草を買った。ショートピースだった。

 紺色の小さな箱が可愛く見えたからとか、その程度の理由だったような気がする。母が吸っていたピアニッシモも、兄貴が吸っていたマールボロも趣味じゃなかった。

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 それまで煙草を吸ったことがなかった。百害あって一利なしとして、むしろ家庭内禁煙を推進していたほうだった。また家に戻ってキッチンで煙草を吸い始めると、兄貴が呆気に取られていた。「お前あんなに言ってたのに」と言った。母はそれを見て、「あなたと同じじゃない」と兄貴に言った。「あなたも昔は、私に百害あって一利なしって言ってたのよ」

 

 今でこそ電子タバコが流行ってるし、その前からJTは煙が少ない、匂いのつきにくい煙草*2を開発していたが、ショートピースは少なくとも100年前から内容が変わらないままで来ている商品だ。

 ショートピースはヴァージニア葉にバニラが着香された煙草で、開封した直後は火をつけなくてもふくよかな香りがした。でも現代の煙草としては重すぎて、どうあがいたって吹かすしかない。肺に入れられる人間の方が珍しい煙草だ。「吸う」というよりは「喫む(のむ)」とか「服む(のむ)」という感じの煙草だった。僕は「喫む」という表現を当時好んで使っていた。

 フィルターがないから煙草の巻紙からヤニが移って指先が黄色くなるし、こまめに歯磨きする必要も出てきた。でもいい匂いがするし、身の回りでこれを吸っている人間なんかいなくって、そこが気に入っていた。同級生がよく吸っていたのはマールボロの赤だったから。

 

 震災後に兄貴が断捨離すると言い出した。買い溜めていたライトノベルを大きなダッフルバッグにぎゅうぎゅうに詰め込んで、秋葉原とらのあなに売りに行く。地震の日に帰ってきた際、自室のベッドにこれらが雪崩れているのを見て、時間が時間だったら死んでるな、と思ったらしい。ライトノベルが詰まったバッグはちょっと信じられない重さだった。そしてそれだけの冊数ともなると結構な額になった。

 その後、中央通りを北上する過程で、とらのあなからの戦利金で秋葉原の中華料理屋で兄貴と一緒にチャーハンを食べたのを覚えている。食後にこの煙草を吸っていたら店主の親爺さんに「にいちゃん、渋いねえ」と声をかけられた。以降、旧い喫茶店でも年配の方から声をかけられることがあった。でもエクセルシオールあたりの喫煙室で吸うと、周りの若い喫煙者は文字通り煙たがった。

 3月19日、秋葉原から中央通りを北上した先にある上野恩賜公園には桜が咲いていた。

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 震災ではJTの煙草工場も被災して、国産煙草の供給が止まった時期がある。それに伴って「チェリー」などの銘柄も廃止が決まった。街のコンビニや煙草屋からは軒並み煙草が消えて、KOOLやKENTなどの海外の煙草をみんな仕方なく吸っていた。歌舞伎町のあたりでは、それでもキャメルだけは余っていた。煙草の自販機でさえすっからかんだったのだ。それでもキャメルだけは余っていたけれど。

 煙草の供給が止まると聞いて、新宿区内を駆けずり回ってピースを探した。コンビニを何店舗も梯子しても見つからなかった。出遅れたと思った。でも歌舞伎町を少し奥に入っていったところにあった、昔からあるような煙草屋に行き着いたとき、その店主の年配女性が店の奥からピース缶を出してくれた。

「いつもね、買っていく常連さんのために取っておいているんだけど。あなたにあげるわ」

 流石に悪いから出直しますよ、と伝えたが、その女性はいいのよいいのよ、と言った。

「その常連さんね、あの日からうちに来てないのよ」

 2011年の3月末頃の話だ。

 

お題「気分転換」

*1:ふくそう。通信回線がパンクすること

*2:D-specと呼ばれていた